「独り娘」はお父様のみ言であり、「第二の御言」ではない
〝お母様批判〟を拡散させる人たちの中には、「伝統はただ一つ! 真のお父様を中心として! 他の誰かの、どんな話にも影響されてはいけません。先生が教えた御言と先生の原理の御言以外には、どんな話にも従ってはならないのです。今、先生を中心として、お母様を立てました。先生が霊界に行ったならば、お母様を絶対中心として、絶対的に一つにならなければなりません。今、お母様が行く道は、お父様が今まで立てた御言と説教集を中心として、行かなければならないのです。他の御言を述べるのを許しません。……どのような御言も、第二の御言を許しません!」(『祝福』1995年夏季号、68ページ)というみ言を引用し、「お父様はお母様を中心に一つになれと仰っているが、その際お母様に対して、お父様の説教集を中心として、他の第二のみ言を語ってはいけないと仰っているので、原理と相容れない『独生女』論を語られるお母様を中心に一つになってはいけない」と主張します。この人物は、お母様の独生女(独り娘)のみ言が「第二の御言」であると断定しています。ところが、「独り娘」についてはお父様がみ言で何度も語っておられるのです。
「神様の前において、『私は独り子だ』とイエス様が言われたのです。独り子が出てきたのに、独り子が一人で暮らしたなら大変です。独り娘がいなければなりません。それで、独り娘を探して、神様を中心として、独り子と独り娘が互いに好む場で結婚しなければならないのです。……それが『小羊の婚宴』です」(八大教材・教本『天聖經』176〜177ページ)
「イエス様が独り子だと語ったので、神様は彼のために独り娘も送られたでしょう。神様の2000年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、2000年のキリスト教の歴史は、娘を求めるための歴史です」(『真の父母經』69ページ)
前述したお父様のみ言である「先生が教えた御言と先生の原理の御言」とは、具体的に言えば、マルスム選集と『原理講論』を指します。今まで「真の父母様宣布文サイト」に掲載したサンクチュアリ教会側の〝お母様批判〟に対する応答文のなかで、教会成長研究院は、独生女(独り娘)のみ言が「先生が教えた御言と先生の原理の御言」、すなわちお父様のみ言や『原理講論』の原理と一致している点について、さまざまな観点から論じ、そこに掲載してきました。
ところで、『原理講論』は、「キリスト教が他の宗教と異なるところは、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が重生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるという点である」(161ページ)、「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない」(264~265ページ)等々と論じていますが、ここで述べる「真の父母」「真の父」「真の母」という概念が成立するには、「独り子」と「独り娘」がいなければならないことを理解しなければなりません。
独生女(独り娘)のみ言が、「先生が教えた御言と先生の原理の御言」に一致することについては、追々述べていくことにしますが、UCI側を支持する人物の「お父様はお母様を中心に一つになれと仰っているが……第二のみ言を語ってはいけないと仰っているので、原理と相容れない『独生女』論を語られるお母様を中心に一つになってはいけない」との主張は、「独り娘」について何度も語っておられるお父様のみ言に対して無知であるために、拙速な判断をしてしまっているのです。
お父様のみ言を自分たちの主張に都合良く解釈したり、み言に対する無理解ゆえに自分たちの主張が正しいとして、お父様の命じられた「先生が霊界に行ったならば、お母様を絶対中心として、絶対的に一つにならなければなりません」とのみ言を軽んじることは、あってはなりません。
http://trueparents.jp/?page_id=3001より